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序章 / Prologue

 夜明けを厭うようになったのは、その女のせいだと思う。

    *

 視線を外したままで、彼女は今朝も浅い笑顔を作るだけだ。
 言い訳めいたことは口にしなかった。
 女もそれを追求しない。
 
 あからさまな残滓と共に帰宅しても、彼女はやはり、それを見逃した。

 己には関係の無いことと割り切っているのか。
 それとも相手にされないという事は、この女にとって喜ばしいことでしかないのか。

 自分が帰らない夜に、彼女はこの部屋で独り何を想うのか。

    *

 可愛げ、という言葉はあまり縁がなかった。
 年齢のわりに、ころころと笑うようなことも無い。
 強いて言うのなら、儚げなのか。

 毎回毎回、断ち切るかの如く、直ぐ躰を離そうとした。
 それを、取り戻すように強引に抱きよせる。

 子供をあやすように背を撫でていると、やがて警戒を解くように、徐々に体重をかけてきた。
 軽く腰にかかるその感じが心地よい。
 やがて男の肩に顔を沈めて、彼女は眠りにつく。
 けれどその細い腕は尚、いつまでもあらがうように二つの躰を隔ててあった。

 何か、根本的なものを忘れてはいないだろうか。
 無理矢理事に持ち込むのはいつものことで、けれど、

 …何が、いつもと違うというのか。

    *

 ある夜、しばらく顔を出していなかった馴染みの女のところへ立ち寄ると、ハナから詰られた。
 当たり散らすように、彼女は一通り彼を非難して、それから一言、ぽつりと吐いた。

 「どんな女と比べたって、もう結論は出てるんでしょう。」

 否定しなかったが肯定もしなかった。
 真意がわからなかった。

 答えを返さないままに視線を女の上に止めていると、笑いだしそうに微妙に顔を歪め、絞り出すような声で、再度問う。

 「どうしてなの…?」

 これには直ぐに答えが出る。
 躰が合うのだ。
 常日頃から、そう定義づけていた。

 それは嘘ではなかったが、何かが腹の中で頭をもたげ始める。
 溜め込んでいる。
 かくまう。
 隠しこむ。

 違う。

 ただ、秘めていた。

    *

 いつも俯きがちな、その娘と視線を交わせた時に男が感じるのは、その瞳に浮かぶ、怯えとも誘いともつかない色だけだ。
 溢れ出るのではないかと思うほどに、潤んでいた。

 泣いていたのか。
 そうだとすれば、何故。

 厭っていただろうか。
 自分を。
 それとも、彼女自身を。

    *

 狂おしげに眉をひそめても、まだ清楚さが漂っている。

 その白さを、染め上げなければ気が済まないように感じた。
 羞恥の限りか。
 それとも屈辱か。

 想うたびに熱く疼くのは、躰だけではなく。

    *

 夏が絶頂を迎えた夜に、賭けに出る。

 「会わせたい奴がいるんだけど。今夜。」

 そう告げる男の顔を、何か眩しいものでも見るような目で仰いでから、女はうつむいた。
 鑞のような指を顎に添えて、考え込むように沈黙を保つ。
 長さのあやふやな髪先が、その表情を隠していた。

 …躊躇っているのか。
 もしそうなら。

 声をあげようと、はっと口を開いた刹那、彼女は顔をあげて頷いた。

    *

 翌朝は一人で帰宅する。
 扉を開けて、いつも通りに目をやった部屋の隅に、ただ朝の陽が射し込んでいたのを見た瞬間。
 自分はそこに彼女が在ったありふれた情景と、そしてその裏にあった日常を永遠に放棄したのだと、

 男はようやく理解した。

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後記:苦しめ苦しめ苦しめぇえ…。と念じてました、書いた時。(呪詛文学)