致死 / (she's) A Lethal Dose - ver1.01
「済んだけど。」襟を直しながら言った。
目の前の男は興味のなさそうな顔で、ただ視線を返す。
いつの間にか雨が降っていた。
古ぼけた倉庫の外は、暗くざわめいた夜だった。
真夏の盛りだというのに、汗ではりついた背のシャツが、まるで氷のように体を冷やす。居心地が悪かった。もう帰ってもいいかと男の方を見る。
背後の建物から、女のすすり泣きが聴こえてくるような気がして、ますます背筋が冷えた。
彼は相変わらず目の前の塀に寄り掛かったままだ。所在なげにくわえた煙草の先に、火はついていない。「あんたも相変わらずだな。飽きたからって、何も金払ってまで俺に…」
沈黙を破るように巫山戯た調子で口にした言葉に、男は初めて顔をあげてこちらを見た。
人を小馬鹿にしたような薄目で、見下すような視線はいつもと同じなのに。「うん、飽きたんだよね。色々試してはみたんだけどさぁ」
そう言った声はやけに軽かった。
ふと見ると、頭上のトタンから漏れる水滴が、その左肩をぐっしょりと濡らしている。なんだ、こいつ。気味が悪い。
別に落ち込んでいる風ではない。寧ろ、悦楽の後に訪れる放心状態のような。
やけに飄々としたその顔つきが、何故かその男に、普段は見えない凄みを浮かび上がらせていた。「それにしても珍しいな、いつもは飽きたら捨てるだけだろ。なんだ、偶には女にしてヤられたか?あんな顔して他に男がいたとか、か。」
胸ポケットを探りながら、何気なくそう口にする。
煙草は先刻、中で落としたようだ。ポケットの中は空だった。ぴたり、と、またひとつ男の肩に雫が落ちる。
男は自分が煙草をくわえていることも忘れているようで、やはり、放心したように数メートル前の地面を見つめているだけだった。「風邪ひくだろうが。」
抑揚の無い声でそう言って、行き場のない右手を髪に持っていき、水を飛ばした。
やっていられない。
あの女といい、こいつといい、妙に気味が悪い。見ず知らずの男に組み伏せられているというのに、声もあげず、涙ひとつ見せず、人形のように無表情なままの、あの娘。
まるで死人を相手にしているようだった。
さっさとずらかるか。
くるりときびすを返し立ち去ろうとした瞬間に、ようやく男が、ぐらりと動いた。まるで初めて気がついたような顔で、己の濡れた肩に数秒目を止める。
口端にかろうじてひっかかっていた煙草を手に移すと、何の未練も無さそうに、ひねり潰して投げ捨てた。「ああ、まだいたの」などと言いながら、新しい煙草を取り出す。
先刻の沈黙は何だったのかと思うほどに、すっきりとした顔をしていた。
再度火をつけないままの煙草を弄びながら、にっと嗤って「どう?良かったでしょ。」などと、悪気の無い顔で言ってのけた。
片棒をかついだとはいえ、さすがに女が気の毒になる。「お前、何をそんなにムキになってやがるんだ」
思わず出たその問いを、男は馬鹿にしたように嗤いながら、「別に」、と一言吐いただけだった。
「おとなしそうな娘だったじゃねぇか、前のに比べりゃ、よほど扱い易…」
その言葉をさえぎって、彼は薄ら笑いを浮かべながら言う。
「もうちょっと」こちらが黙り込むと、息をひとつついて、幾らか低い声で先を続けた。
「もうちょっとすれた女だったら…」良かったかもね、と他人事のような顔で言う。
雨足が少し強くなったようだ。
冷たい風が、えりあしをぬぐった。男は暫く上を向いて何か考えている風だったが、とぼけた顔で先を続ける。
「最初の頃はもっと可愛気があったんだけどねぇ。
一応素直に人の言うことは聞いても、心の中では厭がってるのがよくわかってさぁ。
眉寄せて顔背けたり、無意識に身体よじらせたりしてたんだけど」最近では事が終わるとあっちから寄り添ってくるのだと男は言った。
「拾われた猫みたいに無防備」なのだと。「抱き合うよりも押し倒す方があんたの性に合ってるからな。それで要するに、女に飽きたんだろ。」
男から煙草を受け取り、口にくわえながらそう指摘してやった。
彼はそれを聞いて否定も肯定もしない。
少し黙り込んで、また、正面を向いたまま、にやりと嗤った。「飽きたよう。そりゃね、毎晩抱いてりゃ猿でも飽きるのさ。」
だけど飽きるだけならいつもと同じだ。この男が三ヶ月以上同じ女と居たのを見たことはない。
「…お前、女を扱うのは慣れてるだろうに。何でここまでする気になった。」
上目遣いに様子を伺いながら、探りを入れる。
こちらに横顔だけ向けて、心持ち上向きの男の瞳が一瞬、ぽっかりと虚ろになった。トタンからまた一つ雫が落ちて、今度は男の左頬をつたう。
男は。
答えを返さないままで、唇に挟んだ煙草を上下に揺らした。「…あんたは、そんなに女を汚したいのか。」
思わず洩らした言葉に、一瞬男の顔色が曇る。
ように、見えた。「厭、なんだよう。晩飯作って待ってたり、休みの日に僕の髪切りたがったり。そんな関係はさぁ…」
軽々しい口調だったが、うつむいたその顔の口元には嘲笑が浮かんでいる。
薄暗い街灯に眼鏡の縁が影を作って、目の表情はわからなかった。「莫迦莫迦しくて。」
一呼吸入れた後、怖ろしい声でそう吐き捨てた。
「それじゃ、俺がもらっちまうか。」
戯れにそう言ってみた。
自分が汚した女に同情以外のものは持っていなかったが、男の反応が気になった。
案の定、彼はぎらりと目を光らせてこちらを見る。うつむきがちだったせいで眼鏡はその視線から外れていた。奴は、夜叉のような口で、にっと嗤ってから
「あんな素人女で良けりゃあ、くれてやるよう」
そう言った瞳は、全く嗤っていなかった。
「もっとも…」
反動をつけて、寄り掛かっていた塀から身を起こしながら彼は続ける。
「ちょっと始末が面倒かもねぇ。」「…どういう意味だ。」
男はそれに答えずに、こちらには目もくれないままで、またくわえていた煙草を投げ捨てた。
雨の中に踏み出し、ゆっくりと、ひどくゆっくりと、重い扉に手をかける。
ぎぎぎぃ、と断末魔のような音で軋みながら、数分前に抜け出したばかりの暗闇が、再度目の前に広がった。生臭い匂いが、瞬間、鼻先をかすめる。
男の後ろから何気なくその中を覗き込むと、がらくたの散乱した床の上に、白い手が見えた。
握りしめた血塗りの硝子。
女の細い首に深々と、割れた破片が突き刺さっていた。「お前、こうなる事を知ってて、待っていやがっ…」
この光景を予想してでもいたかのように微動だにしない男の背中に声をはりあげると、彼は肩越しに、凍りつくほど冷ややかな眸でこちらを一瞥する。
その男がそれほど強い目をしたのを見たのは初めてだった。
思わず気をくじかれて黙り込むと、「安心しなよう、別にあんたのせいじゃないからさ」
と呑気な声を出しながら、ずかずかと倒れているものの側に歩み寄って行った。
その靴の下で、ぱきぱきと硝子が割れる。
むせかえる血の匂い。
外からは相変わらず、体を覆い尽くすようにだらだらと続く雨の音がする。背を向けたまま、見透かしたように、男が言った。
「もう帰っていいのさ、用は無いから」
その声が無くても、既に足は後退していた。
むかむかと、何かが胸をせり上がってくる。
吐き気がした。
何なんだ、あいつらは。感じたのは、疎外感だった。
何か。手に負えない何か。
自分は、あのど真ん中にいたのに、完全に部外者だった。雨の中を、何かに追われるように逃げ帰った。
男の頬をつたって落ちた雨のひとしずく。…もしかすると。
否、まさか。あり得ない空想が一瞬脳裏をかすめ、そしてまた雨音に追いやられて消えた。
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後記:ひゃあ。泣かせちった。