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初恋 / The First Love

 恋愛感情の何たるかを知る前に女を抱くことを覚えていた
 だから恋というのは未だよくわからないのだと

 そう言って男は嗤った。
 つられて嗤う。彼は屹度わかっていない。

 自分の気付かないところで、恋なんて勝手に芽生えてしまうものなのに。

   ***************

 男が彼女の部屋に通い始めて三年近く経っていた。彼が他の男と違うのは、彼女を本命の代用として抱かないこと。
 他の男達とは視線の種類が違っていた。入れ物だけではなく、中身まで達しようとする瞳孔。
 彼にとって彼女は、ただの躯以上のものであった筈だ。だからと言って二人は恋人同士では無かったし、彼が他に幾人もの女を渡り歩いていることも知っていた。
 要するに似たもの同士なのだと、彼女はいつか自分たちを定義づけたことがある。
 鬱憤を吐き出す為だけに来る輩よりは、それでも、彼女は彼を好いていた。

 男の表情が変わったのは、いつのことだったか。
 常に軽い口調で喋り、相手の意見など耳に入れる気すら無さそうな男が、唐突にそれを問いた。

 「いきなりさぁ、僕に引っ張られたら…おとなしく引っ張られる?」

 まずは返答に詰まった。
 引っ張られたらって、一体どこへ引っ張っていくつもりなのか。

  そんなことはわからない

 そう返すと、男は彼女の背にかかる髪をいじりながら、ただ興味無さげに、ふぅん、と鼻にかかった声で洩らして微笑んだ。
 その顔は知っている。彼の中で在るべき流れが、何かに遮られた時の顔。けれど男はそんな時でも、自分の心の内に生まれている葛藤に、きっと気づきもしないのだ。

 数日後。訪れた男はやはり様子が変で、天井を見上げ煙を吐きながら呟いた。

 「他の男に抱かせるのが惜しい…っていうか、厭なんだよねぇ」

 それから視線を下げて彼女の方を向き、また微笑んでみせる。そこに優しさは、かけらも見当たらない。
 口に出さない何かを暗示するような、それでいてどこか相手を蔑んでいるような。

 それでも、もしも何かのはずみにこの男に引かれたならば。
 きっと自分はおとなしくついていくのに違いない。
 空気の中に薄く溶けていく煙流を目で追いながらそう思った。

 煙のようにじわじわとこころに沁みていく。それは恋ではなく。
 けれど、彼女は自身を誰かのものにしたかった。心の帰り着く場所が必要なのだ。

 一通り思考を巡らせた後で、言い訳をするように、ただ一度呟いた。

 …恋、ではない。

 それが恋であるはずはなく。ただ彼女は今の生活に飽きていただけなのだと。
 鏡の前に立ち、そこに映る己の顔に爪をたてた。
 恋愛感情の何たるかを。
 彼女は知っている、つもりだった。

 しかし彼女を浸食した何かは、唐突に電話の重たいベルが響いた午後に、その核を突く。

 「明日からまたしばらく仕事で東南亜細亜の方に行くんだけどねぇ…」

 語尾を濁しながら、受話器から届く声はそこで一旦言葉を切った。

  『だけど』、なに。

 急かすように先を問うと、彼は軽く間を置いてから語を継いだ。

「やっぱりねぇ、厭がられても首に縄つけたって引っ張っていくことに決めたよぅ」

 鼓動が跳ねた。
 聞こえてしまうのではないかと思うほど早くなる脈拍に気を捕らわれる。
 そんな彼女の心を知ってか知らずか、男はくすりと嗤って囁いた。

「女の髪は長い方がいいねぇ」

   ***************

 けれど翌日の夜。
 取る物も取らず港に駆けつけた彼女が直面したものは、男の側にぴたりと寄り添った、やっとうなじが隠れる長さの髪の娘。

 彼女の姿を目にとめた男は、屈託のない顔で嗤う。

「思ったより素直についてきたから、手間が省けて楽に済んだよぅ。」

 ああ。そうなの。
 そうだったの。なんだ。
 いやだ、良かったね。嗤っちゃう。良かったね。
 そうだったのね、なんだ。

 絞り出す声が、途切れそうになるので汽笛が、有り難い。

 「君は誰の見送りなのさ?」

 隅に置けないよねぇ、くすくす。含み笑いで何にも気付かずにそう問いかける男の目を見ないように俯くと、娘の細い手首を掴んだ、日焼けした腕が目に入る。
 まるで獲物を逃すまいとする鷹のようで、それはひどく乱暴で。けれどその指に包まれた白い腕に、彼女はひどく、

 …ひどい羨望を覚えた。

 軽い言い繕いをしてその場を離れる。
 闇に浮かぶ船の明かりを、一つ一つ視界の隅に尾をひかせて歩きながら、誤解の根元を考えた。

 なんて乱暴な恋をするのだろう。あんな強引な恋を押しつけられるのはまっぴらだ。
 あの娘も屹度心労が絶えないのに違いない。
 彼はやはり、あの娘がどんなに彼を想おうと、それに気づきも報いもしないのだから。
 あれは、自分自身の恋にすら、気が付こうとはしない、男。

 強く掴まれた腕。
 かたくしめられた指。

 ふいに船窓の丸い輪郭がにじみ、ぼやけ、ひとすじの風が、すぅっと冷たく頬にしみた。

 同じ事だと自嘲する。彼女とて、自身の恋に気付かなかった。
 失って初めて気づく。なんて、月並みな自分。
 そうしてその夜だけは、誰も待たない部屋が堪えきれず。

 多分二度とない、それは初恋だった。

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後記:気がつくと「手首掴み三連作」になってました。アハハ。