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午前五時 / 5 a.m.

 ぬくもりが消える。
 匂いだけ 微かに髪に残る。
 午前五時。
 時計から秒針を抜き、まだ暗い街へと抜け出した。

 細かな雪が降りる街からは、完全に音が消えている。まるで世界に自分一人が取り残されているような錯覚。
 時折前方の交差点をよぎる車の姿も、生命の存在を感じさせるには至らなかった。
 首を軽く振って髪に積もる雪をはらう。
 水分を持たない軽めの雪片が、さらさらと短髪を滑り落りた。
 手袋も何も持たず、ジャケットの下には薄い部屋着一枚だけで、何かに追われるように彼女は部屋から逃げ出した。深く眠りに捕らわれたままの男が、意識の底に在る女の名でも呼ぶような気がして、何故か怖ろしく。

 道路にはまだ誰の痕も捺されていない雪が続く。靴の下でそれはきちきちと音をたてて身を寄せ合った。
 咽に詰まり感情を侵食する何かの正体を見極めようとするが叶わない。
 睫に雪がふれ、瞬きと共に頬をかすり、服の上を流れるように落ちていく。

 喉元に手を触れれば己の指先はひどく冷たく、肌から体温を吸い取り、その下の血液までも冷やしてしまうような気になった。こうしてじわじわと奪われていくのだ。
 指先から始まって、腕や脚から、肩もうなじも、頬に至って、耳を冷やし。

 己の躯を守るように腕を組む。
 常緑の街路樹に降り積もる白いもの。
 何故埋めていくことができるのか。
 汚れることもなく清いままで、何故色を埋めていくのか。

 一点に立ち尽くしたままで、それを追究するでもなくただ街を眺めていた。
 覆われていく様。
 
 天を仰ぐ。
 あの重たげな雲の上には白い月が出ているのだと彼女は知っていた。
 雪雲の上に投げる冷めた光波は、けれど彼女の瞳までは届かない。
 ふと下を向いて、ほとんど白く覆われかけている靴に気付く。地面を軽く蹴って雪をはらい、そのままきびすを返して、白み始めた空気を流すようにして朝へ動き出す。

 心なしか雪片はまた少し軽く薄くなったようだった。

 歯車がずれ、時が狂ったままの部屋の扉を開ける。
 外気が流れ込み、雪片が微かに足下を舞ってから室温に融けて消えてゆく。
 扉を閉めるでもなく、上着を床に落とし、まだ眠っている男の隣に座り込んだ。
 急いだつもりはなかったが、何故か少し息切れがして胸が苦しく、そしてそれが妙にやましい秘密でも抱え込んだかのように芯を責める。

 部屋いっぱいに満ちる緩慢な温もりが、微かにも重厚な窒息感を誘っているようだった。

 一度立ち上がって窓を開け放し、充満する惰気を逃す。疑惑と怠惰の色をした気が雪に埋もれていくように。

 再度男の傍らに身を落ち着かせた。
 その寝顔を見つめるうちに、何気なく彼の肌の上で、自身の冷えた指を滑らせる。
 そこから伝わるぬくみが、こころまで直に流れ込んできて

 途端、寝顔すら直視することができずに視線をさまよわせ、止まったままの時計にぶつかった。

 停止したままの二本の針に妙な威圧感を覚えた途端、強く手首を掴まれる。

 「冷たい指だねぇ…」

 目覚めたばかりの眠たげな瞳とは対照的に、やけに明瞭なその声。
 意志まで主張せんと強く腕にかかる力。
 「窓まで開け放してさぁ、寒いのがすきなのは構わないけど、僕が風邪でもひいたらどうするんだよう」

 くすくすと乾いた嗤いを洩らしながら彼は身体を起こし、

 顔に影が落ちて
 
 ぬくもりの残る敷布に背が押しつけられ

 「…まぁすぐ熱くしてもらうからいいけどねぇ」

 男がそうのたまうのを聞いたかどうか、実際のところは定かではない。
 気がつけば窓から吹き込む刺すような冷気さえも快いほどに、躯は熱を取り戻していた。

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後記:無。