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お日様と海 / Sun Melting

 なぜか海を選んだ。
 観光地でも穴場の砂浜でもない、ただの汚らしい防波堤。
 空は黒く淀み、今にも大粒の水滴が落ちてきそうな気配である。そんな天気でも、数人の釣り人の姿が見えた。

 晴れれば良かったのに。
 
 ふと思う。これじゃはまりすぎてなんだか厭だ。忘れにくくなる、かもしれない。

 男は後ろで何をするでもなく、ただ煙草をくゆらせていた。
 それを非難する気はない。寧ろ、これに付き合ってくれただけでも有り難いと思っていたから。

 これからどうするのだろう。

 何をするあてもなかった。何をしようとしたわけでもなく、ただ海に行きたいと思い、昨夜それを告げた。
 その気持ちを見透かしたように、背後から男が声をかける。

 「それで、どうしたいのさ?此処で。」

 そんなことはこっちが聴きたい。
 わけのわからない関係に終止符を打とうと思ったのは、多分全くの気まぐれだったと思う。

 気まぐれ。

 だからこそ、もっと早くに訪れても不思議ではなかったし、永遠に訪れなくても同じ事だった。
 要するにこの関係は必然ではなかったのだ。この男にとって私が私でなければいけなかった理由はない。他の娘でもきっと同じだったに違いないのだ。
 だから彼女は昨夜、事が済んでから天井を見つめたままでふと口にした。

 うちにかえりたい。

 最早その家がどこにあるかは知らず。それでも自分の属する場所がこの部屋ではないことだけは確かだと思った。
 男は怪訝な顔で身を起こす。その視線から目をそらすように身体を半転させ、布団にうつぶせ、枕元の眼鏡を見ながら語を継いだ。

 もううちにかえってもいいでしょう?

 「帰るって、どこに帰るつもりなのさ」
 
 そう言う声と共に男の腕が背中に回るのがわかったが、そのぬくもりに陥らないように身体を逃す。
 最後に海に行きたいとねだってみた。
 思い起こせば、この男に何かを懇願したのは、それがまだ二度目。

 潮臭い風が吹く。

 その風に押されるように振り向くと、日常のほんの一こまを繰り返す振りをして、さらりと男に別れを告げた。彼は表情をぴくりとも変えずにそれを受ける。
 それから、一人で歩き出した。堤に沿ってただつらつらと。

 濁った記憶が逆流して脳に至る。

 他の女の匂いのしみついた肌や、誰につけられたのかもわからない痕。棚の上、靴の中、洗面台、ありとあらゆる所に置かれた鍵、鍵、鍵。
 隠そうともせずに彼女の前にさらけ出す。
 厭だった。
 彼女に、嫉妬という感覚はよくわからない。
 はっきりとわかったのは、ただ厭だという、それだけだった。

 あの男は焔を抱いている。焼き尽くされたくなければ、離れていく他はないじゃないか。

 言い訳でもするようにそう言って足を止めると、目の前の海で太陽が燃えていた。
 海に沈む。
 あの炎塊が、まるで地球の中に埋もれていくようにどろどろと。境を滲ませて、まるで炎と水が溶け合っていくように見えた。

 …うちにかえりたい

 再度そう呟いて脳裏をよぎったのは、あの男のいる部屋だった。

 唐突に背後から肩を掴まれ引き寄せられる。

 「あぁほら、いつまでも潮に吹かれてるからベタベタじゃない」

 巫山戯たような声が耳元でくすくすと嗤い、思考を白に塗り戻した。

 やだよぅ、ベタベタして気持ち悪いのさぁ

 そう言いながらも男は彼女の腕を離さずに、もと来た道をさくさく引き返して歩く。
 軽い口調で彼は言った。

 ほら、さっさとうちにかえるよぅ

 ああやっぱり。

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後記:無。