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穴 / That Hole

 今日も戻らないつもりだろうか。
 女は指を折って数えてみた。
 九日。
 男が軽く手を振って部屋を出て行ってから、既に九日経っていた。
 帰ってくるという当てもないのに。
 薄く嗤う。
 いつもそうなのだ。いつもそう思う。
 男が部屋を出ていく度に、次に彼が此処に戻る時には、自分はいないものだと。そうして少しは、あの男も喪失感を味わえばよいのだと。
 いつもそう思いながら、男の背中を見送った。

 九日前も。

 あの時は、きっちり半月ぶりだったろうか。 それじゃぁまだまだ戻るわけはない。

 深く息を吸う。
 肺の中に夜気が満ちる。両腕を窓から思いきり伸ばす。

 見上げた空には、円い月が出ていた。

 夜更けに目が覚めて、何をする当ても無く身を持て余し、アパァトの窓から路地を見下ろしているところである。人気の無い大通りの方から、袋小路のこの路地にふらふらと歩み入ってくる細い影に気が付いた。
 見紛う筈は無い。
 酔っているような足どりで窓の下まで来ると、こちらを見上げ、男はくわえ煙草のまま言った。

  宵っ張りはお肌の敵なのさ。

 誰のせいで。
 そう思うと女は、男の破顔した頭上に向けて思いきり、漬け物石を振り落としてやりたい衝動に駆られる。青白い街灯の光に照らし出された其の顔は、全く悪びれる処がなく、にへらとしていた。

 カンカンと軽い音を立てながら階段を上がって、彼は扉に至る。どうせまた、どこぞの女の部屋に鍵を忘れてきたのだろう。
 憂鬱な気分で女が窓際から腰を上げかけると、珍しく鍵穴ががちゃりといった。

  あれぇ、真っ暗じゃない。

 靴箱に手をかけ、半身をうつむかせた状態で靴を脱ぎながら彼は言う。
 身体を起こした瞬間、金縁眼鏡がかくんと下がった。

 あの眼鏡が部屋の端まで吹っ飛ぶほど、男の日焼けした顔を殴りつけてみようか。

 そんな女の心を見透かしたように男は言う。

  何か怒ってる?厭な事でもあったんなら、僕にぶちまけるといいのさ。

 誰のせいで。と、再度思う。

  でもさぁ…

 どこでつけられたのか、安っぽい香水が匂う派手な服を脱ぎながら男は続けた。

  人間一度にできることなんてのは限られてるしさぁ、思い通りにならないのは人生の常だしさ。そういう時は物事に優先順位をつければいいのさ。
  例えばさぁ、行きずりの女と顔馴染みの街娼がいたとするでしょ。どっちか選べって言われたら、その時しか抱けない行きずりの方を選ぶじゃない。
  それと一緒なのさ。

 へへ、と嗤いながら男は畳の上に胡座をかき、ズボンのポケットから煙草を一本取り出してくわえると、マッチを擦って火を点けた。
 暗闇の中に浮かび上がったその顔の鋭さに、女は一瞬ぞっとする。

 勝手な男の美学を聞かされたところで、そんなものは私の知ったことじゃあない。
 待っているだけの生活をいつまで続ければいいのだろう。

   私があなたにとってただの穴でしかないなら、そんなものはどこにだって転がっているじゃない。

 ふと口に出して言ってみた。色々と言いたい事はあったような気がするが、全て一つ一つ、頭から足の方へこぼれ落ちていく。

  ねぇ。私じゃなくてもいいのでしょう。

 呆気にとられたように、男は女を見る。
 動物的だ。いきなり殴りつけられた子犬のような瞳をしている。

 女は唇を噛んだ。修羅場に持ち込むつもりはない。そんなものは必要ない。

 男の口角にひっかかった煙草から、虚しく紫煙がたちのぼってゆく。
 灰が、ぱさりと落ちた。

   …馬鹿だねぇ。

 男がぼそりと呟いて、煙草をもみ消した。よっこらしょ、と年寄り臭いかけ声をかけて立ち上がると、男は女の隣に移動する。

   そりゃあ、僕は女には不自由しないよぅ。顔なんかにいちいち愛着感じるような事も少ないのさ。
  ただ出したい時に我慢するのも面倒だから、辺りかまわず脱いでるように言われるけどね。
  けどねぇ…

 そこで一旦言葉を切り、男は女の目を覗き込む。
 ヂッと。左右180度に費やされる視力を全て一方向に注いだかの如き濃い注視である。

  けどね、お嬢さん。僕だってそこら辺のけじめはつけてるのさ。
  ちょっと前に死んだ偉い作家の先生はこんなことを言ったらしいよぅ。

 えぇとねぇ…と言って、男は窓枠に両腕をかけて空を見上げた。

   『恋愛は唯性欲の詩的表現を受けたものであって、少なくとも詩的表現も受けない性欲は恋愛と呼ぶに価しない』ってさ。

 男が片手を上げて女の頬に触れる。

  あれぇ、振りニキビだねぇ。

 そう言うと彼は、悪戯っぽく、くすりと嗤った。
 片眉を上げ、うつむき加減の顔で上目遣いに女を見据える。

  穴は穴でもね、そんじょそこらの穴とは格が違うのさ。

   **************

 翌日、男は夕方頃に起き出して、いつものように出かける支度を始めた。
 今回も長居をする気はないらしい。
 相変わらずの、南国の花を撒き散らした派手な服を箪笥から引っぱり出すと、袖口にさっさと腕を通す。鏡に向かって短い髪を適当に撫でつけてから眼鏡をちょんとかけ、大きな欠伸を一つした。
 灰皿代わりの茶缶の中からひょいと燃えさしを拾い上げ、それを無造作に唇に挟むと、女に向けて右手をひらひらと振る。
 扉を開けようとノブをひねった後、彼は日焼けした顔を振り向かせると、片方の口角を微妙に上げて言った。

  鳥があんな呑気に飛んでられるのはさぁ、地面が下にあるからだよねぇ。

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後記:読了したカイ様(@カマ会)がぽろりとこぼした、「地面って途中で落ちると凶器になるけどね」というお言葉に、ヒジョーに度肝を抜かれました。すげえよ、カイっこ。さすが榎ッ娘。数年経過した今でも敗北感でいっぱいです、あぁ…。